top of page

鴨居玲と神戸​ ―没後35年 特別資料展

オンライン・ミュージアム

今回のオンライン・ミュージアムの内容や所見は、あくまで鴨居玲に心酔する島田誠の個人としてのもので、

​研究者でもなく評伝でもございません。その範疇でご理解ください。

鴨居玲に想う

私も鴨居玲に心を鷲づかみにされてきた者たちのうちの一人だ。そしてその執心が多くの貴重なものを私に引き寄せてきた。それらはしかるべきところへ寄贈して今はない。

たとえば最初の自殺未遂の時のものと思われる自筆の遺書のような書き付け。
それは医師であり小説家であった原口ちからさんから託されたが、他人に見せるわけにもいかず、折り畳んでファイルに保管していた。原口さんも亡くなり、さて私が死ねば永久に日の目をみることはなくなる。ふと気がつくと、原口ちからさんが「書き付け」と共に私に残していかれた叢書が、津高和一さんの装画で、書名が「厄介な置き土産」(兵庫のペン叢書1、1982)とある。 なんという符合であるか。長く苦しんできたが、石川県立美術館に相談して寄贈させていただいた。今回の石川県立美術館での没後35年展でも資料展示されているのではないかと思う。そして、榎忠さんの前で切り裂いたカンバスは鴨居さんが在学した関西学院大学へ。

今、私の手もとにあるのは… 鴨居さんが愛した伝説のバー「デッサン」(武田則明設計)に置かれ、鴨居さんも座した石彫のオブジェ(山口牧生)。そこに集う心許す友と交わした手紙。魅力あふれるポートレート。鴨居さんが使い込んできたサイン日付入りのパレット。 そして、鴨居さんが恰好いいドン・キホーテであれば、終生、サンチョパンサであり自死の発見者であった岩島雅彦さんが、最後の個展でギャラリー島田に遺した代表作「芸人の一家」(200号)。これは岩島さんから鴨居さんへのオマージュです。
この作品も鴨居玲作品とともに神戸で永眠させてあげたい。
今年は鴨居玲没後35年。私どものコレクションもこの期に公的な場に纏めて寄贈するつもりです。

2020.08  ​島田誠

​<鴨居玲の遺書>

<遺書の読み解き>※ギャラリー島田の没後30年展(2015年)にて、読み解きを試みたものです。

 

どこの馬の骨ともわからぬ私を

とつぜん人としてあつかってくれた

立派な性格です

日本のデザイナーのお手本です。

これを打●しようと???

 

 


またクスリを飲む

和子に絶対命令を最後の願いとして出した。

即ち自殺ホウジョザイではない

私の意志である 死ぬか、

生きるか、私にはわからない

失敗すれば、(私は●にも死ぬだろう)

オモアリサン立派なオマワリになって

ください

そして仕事に熱中して下さい。

人も???   オカアサントモニ今年の???

※和子とは結婚した夫人。田中千代服飾学院のデザイナー。

結婚して間もないころ、初めての自殺未遂の時と思われる。

これは厳密には「遺書」ではありません。

鴨居玲が演技ともとれる自殺未遂を繰り返した、多分、最初のものと思われます。

私が鴨居さんの主治医H氏から託されたもので、貴重な資料として石川県立美術館に寄贈したものです。

鴨居玲という天賦の才能と飽くなき努力で画業を切り拓きながら57才で自死を選んだ、その複雑な生涯を考える大きな手がかりが、この文章に凝縮されているとも言えると思います。

​<鴨居玲からの手紙>

日本での不摂生のたたりでしょうか。体がなんとな

くなじまず、くず〱して居りますが、それで

も毎日夕方七時頃から二時間程散歩。

体重が4kg減って只今七〇kg。あと五kg

は減るものと思われます。仲々スマート

になった様な気がいたします。

ホテルの門番まで全国民、一勢に書寝

をするという、とてもユーガなる風習があ

りますので、寝て居ります。ただひたすらに

寝て居ります。伊藤さんから貰った本を

読みながら。日本での勝次のウヱの反

動でしょう。すこしはかしこくなるかも知

れません。あまりあてには

なりませんが。

なりました。なんとなく此のカワイたスペインの

風が気に入りそうな予感がしますので、

滞在がながびきそうな気がいたします。それに

なんてったって、神戸にゃ住めない事情の

ある私(ワツシ)で御座いますので……。

シヱスターと云って、上はフランコ氏から、下は

前略

 

地球も狭くなったものです。東京で飲んで帰って一寸

神戸に電話した様な感じ。もっとも何回も外国に

出てゐる私。例えれば何回もお嫁入りした、

あばずれみたいなものですから。外国に出

たと云っても、それ程の感激も別段御座いません。

御元気でなによりです。本当に御世話に

五十位になり、ほとぼりのさめた頃に多分

(帰国?)すると思います。何卒皆様によろしく

御伝え下さい。オカアあさんもオトヲさんも本

当に御元気で。レイボウキの小生の絵、

消してください。酔って筆をふるう等とは

本当に恥ずべき事。気になって仕方ありま

せん。(明日から気晴らしに田舎の友人の別荘に

四五日行って来ます。)

川鉄川重のコーラスの方々によろしく。

二月十七日の晴マドリードにて。

Rey Kamoi

ます。こんな事云っても本当にしないでし

ょうねー。

それが毎日ニ三人。本日のはベンチか

ら、落ちてしまいそうな程のウインク。いかなる石部金吉である

私ではあっても、木石では御座いません、わるい気がのするはずは御座

いません。ところがです。私の側近の

ロマーフ王朝の流れをくむ、マヌイロワ・ヱミー

なるコンケツ娘。此の様な時になると、

守る為には、他の人の幸福を絶対におかさないとい

う考え方をしっかり持ってゐるからでしょう。

ほいでですね、散歩のもう一つのたの

しみはですね、小生はじめは気がつか

なかったのですが、スペインの娘がそれこそ

スゴイ流し目を呉れる事であり

↑峯さんに必ず此の項だけみせていただきます。

日本を除いた国の全てが、なんと和やかな事で

しょうか。日本は素晴らしい国です。素晴

しい人達のたくさんゐる國なのに、なんと

人々の心にゆとりのない事でしょうか。悲

しい事です。本当に悲しい事です。

それはヨーロッパの人達が、自分の幸福を

前略
お変りも御座いませんでしょうか。此のところパリ
―は、一ヵ月ちかくもの郵便スト、更に、電気、ガス、
汽車のゼネストに発展しそうな形勢。舞散
る枯葉に、その風情を楽しむどころではない
様子。おかげで、伊藤さん、仕事のスケジュ
ールが、すっかり狂いましたが、明日いよ〱
フランス国立美術館長との会見にまで、こぎ
つけた様子。何時もながら、此の出雲出身の
出雲族の、ねばりは見事なものであります。
 昨日(十月十日)、伊藤さんが、ニースから、
帰って来ますので、飛行場まで行き、彼と
立ちばなしをして帰りますると、私の目の下を、
何んだか、黒い「稲妻」の様な「物体」が通りす
ぎたと思った瞬間。「アリヤ!!古川君では…」
という伊藤さんの叫び声で、その黒い「物体」を
追いかけ、取り押えてみますると、なんと、やはり
古川君、今、日本から到着したばかり との由、
世の中 狭くなりました……。
筆者注。此の「稲妻型の黒い物体」
という表現の意は、お解りでしょうか…?

彼の歩るく後ろ姿の瞬間的な、私の印象であ
ります。此のするどい私の観察力、おほめ、
いただき度い。決して、「ガリまた」とは記して居り
ません。為念。
 さて、それから、わが友、岩島君も呼び出して、
わが車、「ムスタンダ、マツハ1」なるものに、古川
先生を のせて、パリ―見物。古川先生、や
〱、興奮気味にて、「これは良い〱、パリ
―は良い、こんなところに住めれば、本当に
なまけ者になって、のんびり くらせるではな
いか。」等と 意味不明なるを、口
ばしり、私と、岩島君、何んと返事してよ
いものやらと、すまない気にさせられました。
あげくのはてには、「もうパリ―に来たから大丈夫
先輩達に御馳走になれば、余計な金は
使用しないでよいし、こんなに良いところな無
い、あっ パリ―よ!! 然し先輩、私も
せっかく来たのだから、夕食は毎日、
フランス料理でないと、バカ〱しい…。」

等と、世にもおそろしい事を云い出すしまつ。
 すっかり いかれた当方等 三人の中年男、
やけ気味にて飲み つづけましたので、本日は二日
酔い気味で、大きな「シンコキュー」をする
と、ゲロが出そうです。
おそくなりました。「鹿茸酒」御礼申します。
伊藤さんと私とで、ほとんど飲みました。しか
し、あれも やはりなにでして二日酔はする様で
ありますな。
 明日は古川君を、研究所に デッサンをしに
つれて行く予定です。
岡田氏、伊藤氏、それに和佐君、古川君と、かくも
三宮勢に、連続しておしかけられますと、も
う仕事は中止、日本に飲みに帰るぞと、叫ん
でおります。
お元気で皆様によろしく。「おカアさん」御元気
でしょうか。「おカアさん」のために、なにか、しゃ
れたものを さがす積りで おりますが、古川君
の如き、堂々たる居候が、まいりましては、や〱
軍用資金に、危キがせまる感じ。あま
り期待しないでくださいませ。パリ―にて。
外山良平様 十月十一日
パリ―にて 鴨居玲

ても大丈夫と胸をはってますが、これは日本人とは別の
合理的セイケツさの故でしょう。その他床みがき
すごいものです。家が広いので 一寸でも私がねないと「オジサ
ン〱」とべそをかきながら、大きな体で私を
探しまわられるのには、此の中年男まい
ります。これには弱いです。オト―さんわかるでしょう
ホンマに!!私もとう〱此の
ロマノフ王朝の末エイと年貢をおさめるの
かなあと、苦笑いたして居ります。

がぜん白人と化し、小生流し目の相手をするどころで
は御座いません。人生仲々うまくゆかない
もので御座います。でもすでに日本人娘にはなくなった古風
な面を持っていて、私の食養生にはそれこそなみだ
ぐましい努力です。それにトイレの
掃除はおどろくもの。便器→トイレの中で顔を洗っ

ご無沙汰いたしておりますが、お変

り御座いませんか。

昨年の仕事の無理がたたり

まして、六月に右腕の手術を

受けねばならなくなりました。

骨を削って神経を移動

さすとの事、聞くだに身の

毛のよだつ様な想いであり

ます。

外科の手術はこれで通算

七回目。全身これ、全て

ボロ〱といった状態です。

ケンちゃん ならびに、マダム、

カズコに よろしく。

 

林 寛様

五月二十五日

鴨居玲

​<愛用のパレット>
​<座>

「座」は、鴨居さんがこよなく愛したバー「デッサン」(武田則明設計)のために制作され、鴨居さんも座ったものと思われる石彫のオブジェ(山口牧生)。

​<写真>
​<切り裂かれた教会>

破られたカンバス

「たしか1970年だったと思いますが・・・」いつものようの鴨居さんから電話があってこうべ・元町のアトリエを訪ねると、

ほとんど完成まじかと見える教会の絵がかかっていた。

カモイ・ブルーと呼ばれる重厚な青を基調に、入り口もなければ窓もない、岩の塊のようなあの”封じられた教会”である。

「その日も最初は普通に話していたんです。ところがだしぬけに立ち上がったと思うや、

ナイフを握りざまその教会の絵を縦にズバッ、横にズバッ。ぼくはただあっけにとられて」

榎は自分のパフォーマンス路線への暗黙の批判ではないかと考えた。

それにしても、なぜわざわざ榎氏を呼んでカンバスを裂いたのか。孤独な人間は演技によって世界とつながるほかはない。

  死と生とダンディズム 一期は夢よー鴨居玲展から 

 

この破られた「教会」は長く榎忠のアトリエにあり、その後、島田誠に託された。

​現在は、鴨居さんが在学した関西学院大学へ寄贈されている。

鴨居玲と岩島雅彦

バルデペニアスに鴨居が借りていたアトリエに半年暮らし、その後のパリでも、神戸でも最も気の許せる友であり続け、鴨居の自殺未遂事件にも何度も立ち会うこととなる。

居宅も目と鼻の先といってもいい。

1985年9月7日も鴨居の異常な行動を伝えられ鴨居宅へ。岩島が帰宅したあと、自死した。

詳しい経過については牧野留美子「哀しき道化師―鴨居玲の絵画と生の奇跡」(神戸新聞総合出版センター)P327-329

ドン・キホーテとサンチョ・パンサをなんとなく思う。

​<「芸人の一家」岩島雅彦>
​<豆本 回想・鴨居玲(著:伊藤誠)>

(本文より)

はじめに 亡き鴨居兄へ

 

鴨居さん、あなたが亡くなってから、もうすぐ満八年が来ようとしています。全く早いものです。あっという間に時間は過ぎて、当方、あなたの経験しなかった六十代の人生をもう何年か送ってしまいました。と言っても何かそれなりのモノが身についたわけでもなく、ああ歳だなあと思うことのみ多くなってきた昨今ですが。例えば髪は白く薄くなり、身体のあちこちがダルクなったり痛みも出たり……。しかも、当方どこか抜けているのか、まだもう少し生きられるものなら生きてみてやろうと、それなりに張り切っている仕末です。お陰様でというべきでしょうか、美術館の方の仕事もそれなりに忙しく、相変わらずバタバタしています。

 しかし、一昨日あなたの七回忌を記念して大阪天王寺の美術館で回顧展が開かれたり、それに合わせて伝記が出版されたり、また昨年二月テレビであなたを偲ぶ番組が放映されたりするのに出会いますと、俺は鴨居さんのために何をしてきたのかなあと、心がうずくのです。本当に申しわけありません。

 そこで、誠に情けない話ですが、灯の会の仙賀兄のお許しを得て、これまであなたに関して折り折りに書いてきたものを少し集め、ここにまとめさせてもらうことにしました。実は伝記もテレビも、当方にしますと”俺の接した鴨居玲とはちょっとズレてるな”という気もして、寂しくもあったのです。この小冊子であなたの人柄、不思議な魅力などを十分に伝え得るとはとても思えませんが、生前あなたに魅かれていた人たち、死後あなたの作品からあなた自身を知ってみたいと思い始められた人たちに、当方の心に刻み込まれた鴨居玲像をちょっぴりながら提供してみたいと考えました。そんな、半分ルーズな、勝手を許して下さい。そのうち、きっと私なりの鴨居玲像をもう一度描いてみますから。

 

 平成五年晩夏

​<ギャラリー島田での展覧会案内状>
​<関連書籍・図録>
鴨井玲肖像.jpg

​鴨居玲  Rey Camoy (1928-1985)

 

鴨居玲略年譜(島田誠による)

 

1928年 金沢に生れる。しかし、生年月日、場所に異説あり。いずれも韜晦僻のある本人による。
1946年 金沢美術工芸専門学校(金沢美大)に入学。師は宮本三郎。
1948年 第2回二紀展にて初入選。
1949年 二紀会同人。
1952年 六甲洋画研究所で児玉幸雄、中西勝らと、後進の指導にあたる。
1958年 神戸に居を移す。
1959年 最初の渡欧。
1961年 パリから帰国。二紀会脱退。
1963年 ブラジルからパリへ。
1968年 再び、二紀会会員に。
1969年 第12回安井賞受賞。受賞作「静止した刻」
1971年 スペイン、ラマンチャの村人となる。
1974年 スペインからパリへ。
1979年 神戸新聞出版センターより「酔って候」を刊行。
1982年 再び二紀会退会。このころから入退院を繰り返すようになる。
1984年 兵庫県文化賞。
1985年 5月「鴨居玲画集 夢候」出版。
9月7日 自宅にて急逝

 

― ギャラリー島田との関わり ―

1982年ごろ講談社(出版社)の依頼で版画制作取次ぎ。実現に至らず。
1992年 鴨居玲展を開催(K氏コレクションの協力による)
1999年 鴨居玲展「夢候よ」を開催
2000年 日動出版の画集刊行協力。写真撮影など。
没後15年 「一期は夢よ」鴨居玲展(全国巡回展)に協力出品
小磯記念美術館の「田村孝之助介と神戸」展に鴨居作品出品
2001年 2月24日から3月8日まで没後15年「鴨居玲展」をギャラリー島田で開催。

「神戸にいると、ここちがよくて、人間が駄目になる」

実展示について

 

8月29日(土) ―9月9日(水)   ギャラリー島田 B1F unにて展示中

 

会場風景はホームページにてご覧いただけます

http://gallery-shimada.com/?p=6938

展示作業の様子などはスタッフブログにてご覧いただけます

http://gallery-shimada.com/blog/?p=9862
 

© 2020 by  ギャラリー島田 Gallery Shimada 

​※当サイトの無断転載やコピーを固く禁じます。

〒650-0003

神戸市中央区山本通2-2-24 リランズゲートB1F・1F

Tel&FAX : 078-262-8058

Mail : info@gallery-shimada.com

  • ブラックFacebookのアイコン
  • ブラックInstagramのアイコン
  • ブラックTwitterのアイコンt
bottom of page