没後10年 松村光秀展 花色香
オンライン・ミュージアム
監修:渡邊亮平(愛知県立芸術大学 教育研究指導員)
松村光秀は1937年(昭和12年)に、李義男と河貞順の長男として京都市中京区壬生下溝町で生まれた。松村の両親は、韓国で生まれ育ち結婚後に日本へとやって来た。しかし、松村が6才のときに母親は家庭内の不和から韓国へと帰っていき、その数年後に亡くなったため、松村はふたたび母親に会うことはなかった。
中学校を卒業した松村は父のもとで働いていたが、しばらくして竹松画房という看板屋で働くこととなる。そして、この看板屋で働きはじめたことによって松村は、絵具の使い方などを学び画家としての第一歩を踏み出していく。また、この頃に、壬生の家を出て京都市左京区の高野泉町へと引っ越したと思われる。その後1979年(昭和54年)まで何度か引っ越しをしながら20年以上にわたり高野川の近くの松ヶ崎周辺で暮らしていくこととなる。
1961年(昭和36年)に松村は「13回京展」に入選する。そして、翌年には竹松画房を辞め画家として生きることを決めた。1964年(昭和39年)に、お見合いで知り合った西原賢子と結婚し、4人の子宝にも恵まれ幸せな結婚生活を送っていた。このような生活の中で、本展覧会で観られるような作品とは全く違う作風で、花や風景の絵を描き画材屋などに売りにいくことで生活費を稼いでいた。結婚によっても松村の作風は変化したと思われるが、残念ながら1979年(昭和54年)に起きた火事により1960年代~1970年代の若き日の松村の作品は数が少ない。そのため今後新たな作品が発見されることによりこの間の細かな作風の変遷が明らかになっていくかもしれない。1960年代以降、松村はおもに作品を二科会に出品しており1972年(昭和47年)には会友に、1978年(昭和53年)には会員に推挙されている。
1971年(昭和46年)に松村と同じく在日韓国人として育った小説家・李恢成(りかいせい 1935-)が短編小説「砧をうつ女」を発表した。この小説は外国籍をもつ作家として初めて芥川賞を受賞したこともあり非常に反響を呼んだ。そして、この小説のなかに登場した「身勢打鈴(シンセタリョン)」という言葉は、松村のその後の制作を方向づけるものであった。ここで詳しく小説の内容には触れないが、幼いころに若くして死んだ母親の生涯について主人公が回想していく小説である。その境遇に松村は自身の姿を重ねていたのかもしれない。この小説の中で述べられた「身勢打鈴(シンセタリョン)」とは、主人公の亡くなった母に関して、祖母があられもなく泣き、膝を打ちながらその生涯を語る、という身の上話に節をつけながら語るという行為のことを指している。そして、この『砧をうつ女』によって多くの在日韓国人が「シンセタリョン」というものを知り、さまざまな作品のタイトルなどにつけるようになった。そのためか、ルビも「シンセイタリヨン」や「シンセタリョン」、「シンセターリヨン」などいくつかの種類がある。松村も『砧をうつ女』によって広まった「身勢打鈴」という言葉に影響を受けた一人であると言うことができ、ここから松村はこの言葉を独自に解釈し自身の身の上をモチーフに土俗的な世界を描きだしていくようになる。
今回展示されている≪鈴の位置≫(1973年)には、初期の代表作である≪身勢打鈴(シンセイタリヨン)≫シリーズの片鱗を観ることができる。
この「身勢打鈴」という漢字には、実はこの表記以外にもいくつかの種類がある。そして、どのような漢字を使っているのかによって、その漢字の使用者が「シンセタリョン」というものをどこから引用しているのかということのおおよその見当をつけることができる。
種類を挙げてみると以下のようになる。
「身世打令」→通常、韓国で「シンセタリョン」に当てられる漢字。この「シンセタリョン」とは、不運な境遇である自分の身の上話をすることの意味であり、「愚痴を言う」といった程度の意味でもあり、李恢成(りかいせい)が小説「砧をうつ女」で使い、その後広く日本で使われているような民族や家族の悲哀・鎮魂といった要素はほとんど含まれていない。
「身上打鈴」→『季刊芸術』(1971年7月)に掲載された李恢成(りかいせい)の短編小説「砧をうつ女」(初出)で使われた漢字。意図的に先ほどの漢字とは違う表記にしていると思われる。そして翌年の短編集『砧をうつ女』の出版に際しここから「上」が「勢」に改められた。
「身勢打鈴」→短編集『砧をうつ女』(1972年3月)以降に李恢成(りかいせい)が当てた漢字。松村はこの漢字をもとに「シンセタリョン」を自分なりに解釈し、自身の身の上話として血と土俗へと向かっていく。この自家薬籠中のものとなったキーワードは、ここから派生する形で本展覧会の≪鈴の位置≫(1973年)や「26回京展」で紫賞を受賞した≪舞う打鈴≫(1974年)などバリエーションを広げていく。
「身世打鈴」→むくげの会編、『身世打鈴(シンセターリヨン)-在日朝鮮女性の半生』(1972年)出版以降、日本国内でおそらく最も多く使われている漢字。この本は日本人の婦人グループが、在日朝鮮人女性12人の話を集めたものである。1971年の「砧をうつ女」以降、最も早い時期にタイトルとして使われた。この漢字もやはり「砧をうつ女」から派生したものであると思われるが、「鈴」はそのままに、「勢」が「世」に変更されている。
漢字の何でもないような変化とも思えるが、例えば「上」であれば、身の上話と言った面が強調され、「世」なら世代や世界など、「勢」なら姿勢が連想されてこないだろうか。また「鈴」という漢字によって鈴の音が連想させ「令」では感じない儚さや、音楽的な要素を感じさせる。そして、短編集『砧をうつ女』以降、いくつか表記の違いはあるが、日本国内で「身世打令(シンセタリョン)」はさまざまな意味を含みながらタイトルに使われるようになっていく。
1979年(昭和54年)5月12日、幸せな生活を送っていた松村であったが、松ヶ崎の自宅が火事となり全焼する。この火事によって松村と長女は助かったが、妻と長男、双子の次女・三女の家族4人を亡くした。この悲しい事故は、有無を言わせずそれまでの作風(≪身勢打鈴≫シリーズ)からの変更を松村に課すものであった。この事故直前の展覧会(2月~4月)に出品していた作品のタイトルは≪身之鈴≫であるが、事故を境に「身勢打鈴」という言葉は、松村の作品から姿を消していく。その後松村は、妻や子供たちをモデルにした作品を数多く描いていくようになる。しかし、年代ごとに作品を観ていくと分かるように、作品に現れる母親や子供たちはさまざまに変化していき、個人の相ではなく、より広い意味での「女」・「母」・「子」・「母子」といったものへと純化されていく。そして、そこには一個人の悲劇を作家が作品へと昇華していくさまが観られると同時に、どのような状況に陥ろうとも表現することをやめず、あらゆるものを取り込み表出していってしまう作家の業をも感じさせる。この母子を描いた作品以降、松村の作品世界は人間自体のもつ哀しみや愛へと視線を深化させていく。
本展覧会に出品されている≪なわ・とんで≫(制作年不明)という作品は、火事の翌年に描かれた大作≪なわ、とんで≫(1980年・162×130.3㎝)の一部分をトリミングし、色を変え作品にしたものである。この作品からは、火事の後に松村が苛まれたであろう苦しさが伝わってくる。火事直後の1980年代前半の作品には、ヒリヒリとするような緊張感が画面にみなぎっている。本展覧会で出品されているものでは、≪ケンダマ≫(1981年)、≪26日のポーズ≫(1981年)、などである。事故の影響の大きさを考えれば当然のことではあるが、その他の時期とは色味も若干異なり、非常に薄塗りで松村の画業の中でも特殊な作風の時期である。
1979年(昭和54年)以降のさまざまな作品にこの悲しい事故の面影を観ることができ、火事にまつわるイメージは晩年まで松村の制作の中心的なテーマになっていると言える。また、長く左京区松ヶ崎周辺にすんでいた松村であったが、火事ののち右京区へと引っ越し、1997年(平成9年)まで右京区梅津徳丸町に住み制作を行っていく。
1998年(平成10年)の新聞に掲載された記事のなかで松村は、自作について「壁にかけて飾るもんじゃない」と語っている。この短い言葉のうちには、松村の表現に対する矜持が表れているだろう。また同じ記事の中で「人の心の奥底を描きたい」とも語っている。朴訥とした言葉であり、長々と説明を述べるわけではないが、作品を前にこの言葉を思い浮かべると、とてもリアリティをもって響いてはこないだろうか。この「人の心の奥底」への鋭い作家の視線は、自分の周りはもちろんのこと松村自身にも向けられており、自画像をはじめ松村らしき人物を描いた作品にも容赦なく注がれている。
どの年代にもそれぞれ魅力的な要素があり一概には言えないが、作品の形態と表現の完成度から観れば、1990年代後半~2000年代前半に松村の作品はこれまでの制作で行ってきた表現方法の完成形を迎えていると言える。たとえば≪月光≫(1999年)、≪紅≫(2000年・本展覧会メインビジュアル)、など非常に充実した作品が並んでいる。また絵具の使い方も徐々に変化していき、より重厚で複雑な色味が多くなり、絵具のマチエールを意識した表現も観られる。その一方で、鉛筆やコンテの作品では、無駄のない洗練された線描で、厚いマチエールの作品との対比が面白く、表現の幅が非常に広くなっていく。
このような表現の幅の広がりに関しては、木彫の制作からの影響が考えられる。もともと額を自作で作るなど非常に器用な松村であったが、1980年代後半から本格的に木彫作品に挑戦し始める。また同じような時期から、キャンバスの作品とともに板絵の作品も数多く作るようになっていく。器用でさまざまな額や付属品を自作していた松村といえども木彫の制作には苦労したようで、何度も腱鞘炎になり医者に止められながらも制作していたという。絵画と並行して木彫を本格的に始めたことにより、立体を彫っていく感覚が絵具のタッチなどの使い方にも影響していると思われる。
本展覧会でも≪黙≫(1995年)、≪独歩≫(1999年)、≪椿≫(2000年)、など木彫の優品を観ることができる。このような木彫と絵画を合わせて鑑賞することで、松村がどのような作品世界を作り上げようとしていたのかをより感じることができる。
長く右京区梅津徳丸町に住んでいた松村であったが、1997年(平成9年)に西京極、西衣手町へと引っ越し、ここが終の住処となる。
2000年代以降の松村の作品には洒脱さや軽やかさが含まれるようになる。それまでの作品が、切れ味の鋭い硬質なものとするならば、晩年の作品には花かごのような、香りが感じられる柔らかさがある。それは火事以来ずっと松村が引きずり、表現してきたものとの穏やかな和解を感じさせる。緊張感漂う画面から、徐々に画面自体に余裕をもって、制作自体を楽しんでいるような画面作りへと移行していく。色彩もきつい色味から、徐々にやわらかく明るい色や寂びたような色が多くなり穏やかな印象を与える。このような特徴はそれまでの作品にはなかったものであり、観る側への拒絶すら感じさせる若き日の作品に対して、晩年の作品は、観る側を受け入れ包み込んでいるように感じられる。そしてそれは、松村自身の人生との和解であったのかもしれない。
本展覧会の≪華ばこ≫(2003年)、≪人形ばこ≫(2009年)といった絵画と立体を組み合わせた函のシリーズは、絵画・立体ともに自分で作ることのできる松村だからこそ生み出すことができた作品である。本来は絵画も彫刻も建築の一部であり、個々の独立したものではなく一体となり空間を生み出すものであった。この函のシリーズの作品は、かつて絵画と彫刻が一体となり生み出していた空間を、現代において表現することができた稀有な作品だと言える。
この函の作品の萌芽じたいは古く1980年代後半の≪朱ばこ≫(1986年)まで遡ることができる。しかし≪朱ばこ≫(1986年)では、形態こそ箱型に近いが、板に描写されており、まだ立体との融合とまでは言えない。その後、木彫と絵画ともに充実した技術を持つ1990年代後半に至り、おおよそこの形態の完成を観ることができる。
本展覧会のタイトルである「花色香(はなしきか)」という言葉は、生前の松村が「色香」を大切にしなければいけないと語っていた、というところから採られている。ここでの「色香」の意味は、色気とも受け取れるが、色や香りを重視する艶やかな美意識とみるならば、それは「身」や「姿」とともに松村の作品世界を構成するもう一つの重要なキーワードと言える。
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松村光秀の生涯
少年時代
松村光秀は1937年(昭和12)年に父、李義男と母、河貞順の長男として京都府京都市中京区壬生下溝町で生まれた。そして3年後には弟の光泰が生まれた。両親はともに韓国人であり、2人は結婚後に海を渡って日本へとやってきた。そのため1990年頃に日本に帰化するまでの本名は李光秀(イ・カンス)という。
この1937年という年は、日本がまさに日中戦争、そして太平洋戦争へと突入していく時代であった。光秀の育った家庭は、貧しく、父が母に手をあげ、母が家出を繰り返すような荒んだ家庭であったという。光秀はそのような自身の少年時代について「身内のことでよいことはなくて、一時は親から捨てられた状態のときもあった」と語っている[1]。また、この壬生下溝町には光秀の両親のように朝鮮半島からやって来た人々が数多く住んでいたという。往時の壬生下溝町は、商店街があり活気のある町であったが、現在ではひっそりとした住宅街になっている。また現在では、作家としての雅号と同じく光秀(こうしゅう)と読むが、もともとは光秀(みつひで)と名づけられていた。帰化する頃にすべて光秀(こうしゅう)といった読みに統一された。
家庭では喧嘩が絶えず、父の女性問題などもあり、母はそのような生活に耐え兼ね一人で韓国へと帰っていってしまった。そして、光秀はその後二度と母に会うことはできなかった。幼き日々に眼に焼きついたであろう泣いている母の姿は、光秀の女性に対する眼差しの基調を形作ったのではないだろうか。光秀が作家としてその画業の初期にシリーズとして描いていくことになる<身勢打鈴(シンセイタリヨン)>と名付けられた作品群は、この幼年期の凄惨な家庭での父母の業の姿をテーマに描かれている [2] 。
修業時代
光秀の家庭は貧しく、彼は中学校を卒業するとすぐに働き始めた。鉄工所で古物の再生などをしていた父の仕事を手伝っていたが、父の再婚した継母と折り合いも悪く、喧嘩をして家を出ていくことにした。仕事も、中学校の教師の紹介で竹松画房という看板屋で働くことになった。光秀は中学校では美術部に入っており、学校の代表に選ばれたこともあるほど絵が上手かった。そのようなこともあり、映画の看板などを描く竹松画房を紹介してもらえたのだろう。
だが、中学校を卒業したばかりの青年に部屋を貸してくれるようなところはなかなか見つからず、下宿を探すことには苦労したようである。ようやく松ヶ崎の高野泉町に下宿を借りることができた。その後、1979年まで幾度か引っ越しはするが、光秀はこの洛北の地で生活していくことになる。竹松画房は京都で上映される映画の看板などを描く工房であったので、ここでの仕事を覚えていくことによって、絵具の使い方などを学んでいった。また、後年に作品のなかに描き込む様々な文字も、この頃の仕事によるものが大きい。このように竹松画房で働くことによって、絵を描いていくために必要な技術を得ることはできたが、下宿代などをあわせると経済的には苦しい日々が続いた。
後年に光秀が娘へ語ったことによると、光秀の父には幾人かの兄弟がおり、そのうちの一人は、同じ京都市内に住んでいたという。この父の弟にあたる人物は、仕事も何をしているのか分からないような飲んだくれであったという。そしてこの叔父はあろうことかやっと働きはじめ、経済的に厳しいなか自立した生活をおくっていた甥っ子の光秀に、度々お金の無心に現れたという。そしてある時には、もらったばかりの給料のほとんどを毟むしられた。光秀はこの悔しさを後年まで忘れることができなかったという。光秀の描く人物たちの表情や姿は、一面では業にまみれ、業とともにある人々の姿を私たちに垣間見せるが、それは若き日のこのような体験に裏打ちされたものであろう。
画家としての出発、そして火事
いつ頃から光秀が絵画作品を制作し始めたのかについて、正確な年代は分からないが、1961年に京展に入選、1962年には京都アンデパンダン展に入選していることから、1961年頃には絵画作品の制作を開始していると思われる。光秀本人は絵画制作の理由について後年に「金銭欲だけに生きる自分のむなしさ」に嫌気がさしたことをきっかけに制作を始めたと語っている。京展に入選したことをきっかけに画家として本格的に活動していくことになるわけであるが、当然すぐに自分の作品だけを売って生計を立てることはできない。花や景色を描いた絵を画材屋へもっていくと、よく売れ、なんとか生活してゆくことができ、そこで竹松画房も辞めて画家として生きていくことを決めた[3]。ともに働いていた工房の仲間たちとは辞めたあとも交流は続いていった。1962年に二科展へ出品するようになり、1989年に退会するまで長く所属することになる。
父親同士が知り合いであった縁でお見合いをした3歳下の西原賢子(かしこ)と1964年に27歳で結婚する。ともに在日韓国人同士の結婚であった。光秀はお見合いをしてからしばらく結婚を決断しきれずにいたが、しばらくしてもまだ待っていたことを知り、結婚を決めたという。また妻の賢子が光秀と結婚を決めた理由は、義両親と同居しなくても良かったからであったという。
賢子と結婚した光秀は、1967年に長男、1969年に長女、1972年に双子の次女三女をもうけ、とても幸せな日々を送っていた。二科展でも1972年には会友に推挙され、翌年は自身の作品が彫刻の森美術館に所蔵されるなど生活も安定し、制作も充実した日々を送っていた。1978年には住んでいた借家が手狭になったので同じ正田町内に引っ越しをした。
ところが1979年5月12日、ストーブから出火し自宅が全焼する。二階にいた光秀と長女の志奈子は助かるが、一階にいた妻の賢子、長男、次女、三女がこの火事で亡くなった。洛北のこの辺りはまだ底冷えのする時期であったという。それまでは<身勢打鈴>シリーズを描いていた光秀であったが、この悲しい事故の後、この火事で亡くなった家族をモデルに多くの作品を描いていくことになる。
火事からの再起、そして晩年へ
火事の後、しばらくは弟の家へ身を寄せていた。この時期、長女をあずけ光秀はひとり長崎へ出かけたという。おそらくこの一人旅のなかで受け止めきれない現実を整理しようとしたのではないだろうか。その後、右京区梅津徳丸町へと引っ越した。そして辛うじて焼け残っていた家族との思い出の品々を、娘が小学校へ行っているあいだに桂川へ持って行き、河原で燃やしたという。
1981年以降、個展を行ってはいたが、ほとんど自作が売れることはなかった。その間、相変わらず画材屋へ売り絵を持って行ったり、着物の裏地を描く仕事などをして食いつないでいた。そのようななか、同じく竹松画房から画家になった先輩に、海文堂ギャラリーのオーナーである島田誠を紹介される。この画廊に全面的にプッシュされていくことで、光秀は作家として関西で認知されるようになり、作品が売れるようになっていった。光秀の作品は、阪神淡路大震災以降はとくによく売れたという。これまで経済的にかなり苦しい生活をしてきた光秀であったが、ようやく経済的に安定し制作だけに打ち込めるようになった。この頃から毎年個展を開くことができ、いよいよ旺盛な制作を行っている。1989年頃からは母を弔いたいとの気持ちから木彫を始めた。
その強い個性の作品たちは、独自の審美眼を備えたコレクターたちに購入され、熱狂的なファンを獲得していった。現在でもこれらのコレクターたちによって松村の作品は、大切に保管されている。
両親に捨てられているような状態の荒れた家庭で育ち、中学卒業とともに働き、結婚し、ようやく手にした幸せな日々を火事で失った。そして、作品もなかなか売れず経済的に苦しいなか、男手一つで娘を育てあげた。このような波乱に満ちた人生を送ってきた光秀だが、ようやく晩年には穏やかな生活を送ることができるようになった。光秀本人は、作品が緩くなっていると語っていたようであるが、それも年経たうえでの作品の変化の一つといえる。晩年の作品には技術的な円熟と肩の力のぬけた軽さが感じられる。それはまた光秀自身のもっていた俳諧的な諧謔への嗜好の衒てらいのない素直な現れであろう。
また、晩年は関西以外にも梅野絵画記念館(長野)、信濃デッサン館(現在は残照館)別館の槐多庵(長野)や佐喜眞美術館(沖縄)などで展覧会が開かれ、東京や大阪で個展も行った。このように展覧会は充実していっていたが、2010年頃から体に不調を感じ始め、2012年9月10日、翌日に手術を控えた日に容態が急変し、翌朝の11日に帰らぬ人となり、74年の生涯を閉じた。
光秀自身も自作のモチーフを私小説的なものと称していたように、そこには光秀自身の心情がどのようなときにも映し出されている。だからこそ彼の作品は世の中がどのように変化しようとも、人間の業や哀しみに目を向ける人々を魅了してやまないのではないだろうか。
註
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より詳しく松村光秀を知りたい人のために、本稿以外の光秀の生涯に関するものとして、島田誠氏の『絵に生きる 絵を生きる 五人の作家の力』(風来舎、2011)と拙論、「松村光秀の生涯と芸術―絵画作品を中心に―」(『愛知県立芸術大学紀要』50号、149-162頁、愛知県立芸術大学、2022)を挙げておく。そのほかにも評論として樋口ヒロユキ氏の「松村光秀 現代アジアの捻れの化身」(『別冊TH ExtrART file.03~闇照らす幻想に、いざなわれて』、54-61頁、書苑新社、2014)や、光秀の生涯をモデルにした小説である高柴三聞氏の「寂滅為楽の絵師」(『コールサック(石炭袋)』110号、257-275頁、コールサック社、2022)などがある。
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この<身勢打鈴>という聞きなれない言葉は、外国籍の小説家として初めて芥川賞を受賞した李恢成の短編小説「砧をうつ女」から採られている。「シンセイタリヨン」とは朝鮮半島の文化であり、もとは自身の嘆きを節をつけながら歌い語るというものであるらしい。このシリーズで光秀は父の業と、その父に殴られ泣いていた母の業といった自分自身の血の原点へと向かっていった。そしてこの哀話の世界を絵で歌い語ることによって、これらの嘆きを浄化していったのではないだろうか。<身勢打鈴>の読み方については、「シンセイタリヨン」、「シンセイタリョン」、「シンセタリョン」などいくつかの表記が存在するが、本稿は『松村光秀作品集「姿」』(光琳社出版、1998)の作品及び、1976年の光秀直筆の公募展への出品票の表記を参考に「シンセイタリヨン」に統一した。
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光秀が、厳密にいつ竹松画房を辞めたのかは不明である。現在、竹松画房にいた人々はすでに他界しており、キャリアのスタートした時期について、光秀自身もインタビューによって若干の変化がある。例えば1989年の朝日新聞のインタビューでは27歳からカンバスに向かったとあるが、2001年の産経新聞では26歳に二科展に出品しデビューとなっている。しかし、すでに24歳(1961年)で京展、25歳(1962年)で二科展に出品しており、年代的に誤差がある。本稿では最も信頼性の高いのものとして註1の島田氏の著作に準拠している。
実展示について
2022年8月27日(土) ―9月13日(火) ギャラリー島田 B1F un & 1F deux & trois
会場写真はホームページにてご覧いただけます
上記作品のほか、計96点を展示しました。